あれは二年前……。
私が珍しく祖父と喧嘩してしまった時のこと。あの日は雨が降っていた。
慌てていた私は、傘も持たずに家を飛び出した。でも、結局行く当てなんかなくて、適当な場所で雨宿りをすることにした。
しばらくそこにいると、数人の柄の悪い男達が私に声をかけてきた。
ナンパというやつだ。私は相手にするのが面倒で無視していたのだが、男達はしつこく迫ってくる。
途中からは、強引に私を連れて行こうとしてきた。だから、面倒くさくなって、つい手を出してしまった。
私の繰り出す拳や蹴りは見事に決まり、男たちは口ほどにもなく、あっという間に私に倒されていく。
すると、仲間の一人がナイフを持って私に襲い掛かってきた。
私がそれぐらいでやられるわけがない。
軽く返り討ちにしてやろうと思い身構えた。が、なんと男は卑怯にも、近くにいた一般人を人質に取ってしまったのだ。人数的にも分が悪く、どうしようかと思案する。
自分一人ならまだしも、人質を傷つけるわけにはいかない。私が唇を嚙みしめた、そのとき……龍が現れた。
龍は華麗な動きで、あっという間に男たちを蹴散らしていく。
その姿は、龍というより、虎のようだった。 圧倒的なパワーとスピード。本当に強い男っていうのは、龍のことをいうのだ。と、このとき私は改めて思った。
なんでこんなタイミングよく現れたのかというと、龍は私が家を飛び出してからずっと私のことを見守っていたのだそうだ。 単純に言えば、あとをつけていた。いつ声をかけていいのか迷っているうちに私がピンチになり、体が勝手に動いていた、と。
私としたことがずっとつけられていたことに全然気づかなかったなんて、不覚。と、この時はすごく悔しかった。
まあ結果、助かったんだけど。
「お嬢、大吾様が心配しています。帰りましょう」優しい笑みを浮かべた龍が、私に手を差し出した。
大きくて骨ばった男らしい手。
私はその手をじっと見つめ、考えた。ちょうどここら辺が潮時だと思っていた。帰るなら、このことをきっかけにした方が帰りやすい。
そう思た私は龍の手を取った。龍は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうにはにかむ。そして、優しく私の手を握り返した。
私は龍に連れられ、祖父の待つ家へと帰っていった。
☆ ☆ ☆ 「何をしているのですか?」 「龍!」龍のこと考えていたら、龍が目の前に降臨した。
考え事をしていて気づかなかったけれど、私はいつの間にか龍の迎えの場所に到着していたようだ。
龍は、私とヘンリーが繋いでいる手をじっと見つめている。
私は急いでヘンリーの手を離した。「龍、怒らないで! 別に手を繋ぐぐらい、いいじゃない?
ほら、昔私たちも繋いだでしょ?」私がそう言うと、龍は薄っすら頬を染めながら取り乱す。
「あれは、流れというか。……私にやましい気持ちはありませんからっ」
龍は顔を背けながら、私のことを窺うように視線だけをこちらに向けた。
すると、ヘンリーは突然怒った様子で龍に迫っていく。「龍も流華と手を繋いだことあるの? ずるい! いつも僕のこと怒る癖に、龍だって好きにやってるじゃん!」
「何を! 私は別にそういう変な意味ではない。貴様はお嬢によこしまな気持ちがあるだろうが!」 「よこしまって何? 僕は流華が大好きだから一緒にいたいし、触れていたいって思うだけだよ。それがなんでいけないの?」 「それがよこしまだって言うんだ!」 「ちょっと、ストップ! こんなところで言い合いしないで、家に帰るよっ」私は言い合う二人の間に割って入った。
こんな白昼堂々、言い争っていたら目立つではないか。
先ほどから、通りすがりの生徒や買い物帰りの主婦、散歩中の老人が何事かとこちらを見つめてくる。私が二人を睨みつけると、二人とも途端に大人しくなる。
しょぼくれたヘンリーの手を引き歩いて行く私の後ろには、これまたしょぼくれた龍がとぼとぼと付き従う。
なんだか、二人の悪ガキを持つ母親のような気持ちになってしまった。
私嫌だよ、こんな大きな息子二人も。二人が大人しくなったうちにさっさと帰りたくて、私の足は自然とスピードが上がっていった。
「うわー、綺麗!」 視界に飛び込んできたのは、一面に広がる緑の絨毯。 周りを見渡せば、色とりどりの花畑が点在し、たくさんの木々たちが風に揺れていた。 見ているだけで、心が癒されていくようだ。 マイナスイオンのおかげか、空気も美味しく感じられる。 今日は、運よく晴天―― あたたかな日差しが降り注ぎ、空は青く澄み渡っている。 私は大きく深呼吸した。「……気持ちいい〜」 ヘンリーは目を輝かせながら、景色に見惚れている。 無邪気なその横顔が、子どもみたいで……自然と頬が緩んだ。「あー、なんだか思い出すなあ、ねっ!」 嬉しそうに笑いながら、私をまっすぐに見つめてくる。 思い出す……とは、前世のことだろうか。 確かに、前世の私たちは、よく草原でデートをしていたような気がする。「流華、行こう!」 ヘンリーは、私の手を取ると走り出した。 楽しそうに駆けていく彼の背中を見つめながら、たまにはこういうのも悪くないか、と思った。 すっかり彼のペースに巻き込まれているような気もするが……まあ、いいか。 ヘンリー楽しそうだし。 今日は付き合おう。 この前、お世話になったしね。 そう決めた私は、今を楽しむことに集中するのだった。 この広大なテーマパークは、一日ではとてもじゃないけど回り切れない。 それを知ってか知らずか。 ヘンリーは子どものようにはしゃぎながら、私を連れまわしていく。 パーク内を巡り、様々なアトラクションを楽む。 メリーゴーランドに始まり、動物の餌やり、迷路、アスレチック。 さらには子ども向けのゴーカートまで。 子どもが好きそうなアトラクションばかりを好むヘンリー。 彼に付き合うのは、かなりの羞恥心と闘わなければいけないことが多く―― かなり、疲れる。
「さてっと、今日はどうしようかなあ」 休日。特に予定のない私は、居間でスマホをいじりながらのんびりと過ごしていた。 ――ピンポーン。 玄関のチャイムが鳴る。 しかし、誰も出る気配がない。 ん? 今、みんな出かけてるのかな? 少し面倒に思いながらも、私は腰を上げ、玄関へと向かった。 「流華!」 扉を開けた瞬間、ヘンリーが勢いよく飛び込んできた。 驚く間もなく、思いきり抱きしめられてしまった。「ちょ、ちょっと、いきなり何?」 突然の行動に面食らい、目を白黒させる。 ヘンリーはそんな私を真正面から見つめ、意味深な笑みを浮かべている。「ふっふー。流華、今日は僕とデートして!」 満面の笑みでそう告げられ、思わず問い返す。「……なんで?」「なんでも! お願い、お願い、お願いー!!」 まるで子どものように駄々をこねるヘンリー。 こうなったら、なかなか引かないことはわかっている。 面倒だな……と思いつつ、私は観念した。「……わかった。今日はとくに予定ないし、付き合うよ」「やったー!」 ヘンリーは嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねる。 ほんと、子どもみたいなんだから……。 あきれたように笑い、小さくため息をつく。「ちょっと待ってて」 玄関にヘンリーを残し、出掛ける準備をしながら龍と祖父の姿を探した。 しかし、二人の姿はどこにも見当たらない。 あれ? 今日って、組の総会か何かあったっけ? 仕方ないので、私は机の上に書置きを残しておくことにした。「あと、念のためっと」 スマホを操作し、龍にメッセージを送った。「よし、じゃあ、行きますか!」 こうして―― 何もなかった私の休日は、妙にテンションの高いヘンリーとのデートへと変わった。 どこへ
「なんでもない。……それより、デートはどうだったの?」 なんでこんなこと聞くかな。 すぐに後悔した。 本当は聞きたくない。でも、気になる。「少し二人で歩いたあと、お食事して、果歩さんを家まで送ってきました。それだけです」 龍の視線は真っ直ぐに私に向いている。 そこに嘘はないんだとすぐにわかる。 それなのに――「で、どうだったの?」「は?」「感想よ。楽しかったとか、嬉しかったとか、果歩さんが可愛かった、とか……。 いろいろあるでしょ?」 ああ、また余計なことを。 口が勝手に動く。 止まらない。「もしかして、焼いてくれているんですか?」 龍が嬉しそうな顔をする。 なんだか、腹立つ。「そんなんじゃ……ない、わよ」 声はしぼみ、つい目をそらしてしまう。 面倒な子って思われないかな。 私はそっと龍の表情を盗み見る。 ……そこには、照れくさそうにはにかむ龍がいた。「嬉しいです……。お嬢にそんな風に思っていただけるなんて。 それだけで、俺は果報者ですね」 そのまま、私は龍に優しく抱きしめられる。 彼の体温がじんわりと伝わってきて、心が静かに波打った。「こりゃ、こりゃ……わしは邪魔じゃな」 祖父がこそこそと部屋を出て行く気配がした。「ふふっ、親父も本当は私たちに悪いって思っているんですよ。 素直じゃないですけど」 龍の言葉に、私は眉をひそめる。「本当に? そうは思えないんだけど」 二人でくすくすと笑い合う。 龍の腕が緩み、私たちは至近距離で見つめ合う。「流華さん、俺が愛している女性はあなただけです。 何度も言っているとは思いますが……他の女性が入る隙など、ありません」 熱い瞳で見つめられ、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
ヘンリーと別れた私は、家に帰ると真っ直ぐ洗面所へと向かった。 手を洗い、うがいを済ませたとき、ふとテレビの音に気づく。 その音源は、どうやら居間からのようだった。 ふと、私をこんな事態に陥れた張本人の顔が脳裏に浮かぶ。 気づけば、自然と足が居間へ向かっていた。 部屋をそっと覗き込んだ私の目に飛び込んできたのは、新聞を広げながら呑気にあくびをしている祖父の姿だった。 私は小さくため息をつく。「お、流華、お帰り。龍はまだじゃよ」 私に気づいた祖父が、笑顔を向けてくる。 こっちの気持ちも知らないで。「……わかってる」 少しムッとしながら、祖父と机を挟んだ反対側に腰を下ろした。 怒っていることを察してほしくて、わざと乱暴に座る。 だが、祖父は怪訝そうに眉をひそめるだけで、不思議そうな顔をした。「なんじゃ、不機嫌そうに。そんなんじゃ、龍に愛想つかされるぞ」「おじいちゃんに言われたくないわよっ!」 大きな声が部屋中に響く。 さすがの祖父も、驚いて目を丸くした。「な、なんじゃ?」「おじいちゃんのせいでしょ! 私たちずっとうまくいってたのに……めちゃくちゃよ! そんなに私たちの邪魔して、楽しい?」 感情をぶつけるように睨みつけると、祖父の表情が一瞬だけ怯んだように見えた。 しかし、すぐに余裕の笑みへと変わっていく。「ふんっ、これくらいでダメになるようなら、いつかダメになっとるわ。 本当にお互いを信頼していたら、心は揺れん」 痛いところを突かれ、私はぐっと言葉を飲み込む。「そんなの、わかってる。 わかってるけど、不安になるでしょ? 好きであればあるほど、苦しいの! おじいちゃんにはわからないよっ!」 悔しさに駆られ、勢いよく立ち上がった。 振り返り様に誰かに思いっきりぶつかってしまう。「いたっ!」
そのまま迷いのない動きでヘンリーを交わし、何事もなかったかのように私の目の前にやってくる。「なっ……」 ヘンリーは絶句し、相川さんを凝視する。 相川さんは至近距離から私を見下ろし、優しい笑みを浮かべた。 頬に触れながら、熱っぽい瞳を向け、そっと囁く。「僕を、選べばいいのに……。 そうすれば、そんな悲しそうな顔をして一人で泣くことはない。 僕は絶対にあなたを悲しませたりしない。 流華……僕を選べ」 自信に満ちた表情。 口元は笑っているのに、目は鋭く、まるで獲物を捉えるように私を貫く。 その視線から、目を離せなかった。「流華、好きだ」 ゆっくりと相川さんの顔が近づいてくる。 私は彼から逃げようとする。 が、金縛りにあったかのように動けない。「ダメーっ!!」 突然、ヘンリーは相川さんに思いきり体当たりをした。 しかし、相川さんはそれを察知していたかのような素早い動きで身をかわす。 そのとき、はっとし我に返った。「ヘ、ヘンリー?」 戸惑う私を背に庇いながら、ヘンリーがこちらへ顔を向け微笑む。「へへっ、僕が守るって言ったろ?」 なんだかとても誇らしげな表情。 私を守れたことが、よほど嬉しいらしい。「ありがと……」 心からほっとした。 もし邪魔が入らず、あのままだったら――。 不覚! なんであんな状態で固まっちゃうかな、も~! これでは、相川さんの思うつぼだ。 彼の瞳には、人を惑わす力があるのかもしれない。 あの瞳に見つめられると、思考が止まるっていうか、ぼーっとするというか……って、そんな摩訶不思議なこと。 何なの? もうわけがわからない! とにかく、相川さんには気をつけなくちゃ。 ごちゃごちゃする思考を振り払い、集中する。 ヘンリーと並び、相川さ
そこにいたのは、相川真司だった。 意外そうに目を見開き、こちらを見つめている。「おまえ……」 相川さんに気づいたヘンリーが、鋭い眼差しを向けた。 だが、そんな視線など意に介さず、相川さんはニコリと微笑み、ゆっくりと私たちの方へ近づいてくる。「こんなところで何してるんですか? ちょうど流華さんのところへ行こうかと思っていたんです。偶然ですね」 嬉しそうに私を見つめる相川さん。 その視線から守るように、ヘンリーが私の前に立ちはだかった。「今、流華はおまえに会いたくないってさ」 背中越しで顔は見えないが、ヘンリーから珍しい男らしさが漂ってくるのを感じ、驚く。「そうなんですか? それは……彼女の涙と関係あるのかな?」 余裕のある声音で、相川さんが問いかける。 さっき私が泣いていたのを、見られていた?「それとも、龍のせい? だったりして」 核心を突かれ、心臓が痛む。 今この人から逃げたところで、何も変わらない。 ――ちゃんと向き合ったほうがいい。 そう思った私は、覚悟を決め、ヘンリーの背中から抜け出した。 相川さんの前に姿を現すと、彼の目がわずかに見開く。「流華さん……大丈夫ですか? 心配していました」 相変わらずの笑みを向ける彼とは対照的に、私は真面目な顔で問い返す。「なんで心配なんて?」「だって、今日は龍と果歩のデートですから。流華さん、辛いだろうなあと思って」 相川さんは、気持ちを探るような目で見つめてくる。 知ってたんだ……そりゃそうだよね。 果歩さんは妹なんだから、今日のことを知ってて当然。 彼に弱みを見せないよう、まっすぐ見返した。「心配は不要です。私は大丈夫ですから」 少しでも弱みを見せたら、つけこまれる。 ここは平然とした態度を見せないと。「そうだよ! それに、流華には僕がいるから!